連載第四回目は、幼少の頃より海外生活が長かったことから、US NAUIとのパイプ役として、NAUI JAPAN事務局長を経験。ダイビング業界の成長期に、株式会社ナウイエンタープライズ設立時の社長就任。
現在は、グアムで活躍中の吉村 岳志氏(NAUI INSTRUCTOR #6628)です。
27年前、グアム島で開催されたNAUIインストラクタートレーニングコースに合格し、その後ダイビング雑誌で翻訳者のアルバイト募集広告を見つけたことが、私とNAUI Japanとの出会いでした。 翻訳の仕事は色々させていただきました。その頃アメリカの出版物としてあったのは、安全潜水の情報交換の媒体として、「NDAニュース」が隔月で発行されていました。このNDAとはNAUI Diving Association(NAUIダイビング協会)の略で、NAUIのリーダーシップメンバーのみならず、幅広く情報を交換したいという目的がありました。
私はまずこの「NDAニュース」に載っていた記事をいくつか翻訳しました。そこには広大なアメリカ大陸の様々な場所で、多種多様な目的をもってダイビング活動に参加されている人達がいました。作業ダイビング学校の経営者、米国海軍の潜水隊員、淡水の沈船ばかり潜っているシカゴのダイバー、海底20メートルから水面まで伸びるケルプの林で潜るカリフォルニアのダイバー達、NASA訓練施設で宇宙飛行士に無重力トレーニングを行うインストラクター、フロリダのディズニーワールドで水中アトラクションを担当するインストラクター。皆それぞれのダイビングライフを背景に、安全潜水を共通テーマとした記事を書いていました。
女性とダイビング、潜水後の飛行機搭乗、レスキュー、減圧理論などが定番のテーマでしたが、その中でも印象に残るのは、米海軍の減圧表で浮上速度がなぜ毎分18メートルに設定されていたかについて書かれた記事です。おそらく最先端の研究結果から算出されたのだと思っていましたが、実は当時の2種類のダイバー達の妥協の結果だったのです。行動力のあるフロッグマンには遅すぎず、ゆっくりとしか動けないヘルメットダイバー達に早すぎない速度だったのです。難しい理論があるダイビングの割には簡単な理屈でした。
当時日本のダイビングコースで使われていた書物には、アメリカのNAUIコース基準と、各方面の先生方に執筆いただいた資料集を併せた日本版プロマニュアルがありました。そしてアメリカのプロマニュアルには、インストラクター用の手引きとして含まれていた「ベーシックコースの指導概要」を一般向けに編集されたダイビングマニュアルもありました。この時点で受講者用のマニュアルがあった日本は、アメリカより一歩先に進んでいたといえます。アメリカサイドの考え方は、インストラクターに指導概要を提供し、それぞれが教えている環境や対象者を考慮して、各自が受講者用資料を作成して提供するという、学校教育をモデルにしたものでした。それが今でもNAUIのモットーとして掲げられている「Academic Freedom=教育の自由」なのです。
しかし、レジャーダイビングが主流となった現場には、各コースの教材が必要であり、またNAUIの運営にその売り上げが大きく貢献していたことから、アメリカと日本で同時に各種マニュアルの出版ラッシュが始まりました。更にアメリカではコース基準が改定され、最終バージョンがUSの理事会で承認されるまで、何回もコース基準を全部訳していたことを思い出します。
「NAUI JAPAN事務局時代」
私が入った1983年ごろのNAUI Japanはインストラクター会員の選挙で選ばれた7名の理事によって運営方針が決められ、日常の業務は事務局に委託されました。当時は一文字一文字を探して刻印する和文タイプライターで会報誌を作成していましたが、日本語の苦手な私はまだ珍しかったワープロの購入をお願いして決済されました。また、バブル初期の時代でCカード発行枚数も毎年30%以上の勢いで増え続けていました。カリフォルニアの本部に委託していたCカード発行作業を国内に切り替えるため、プラスチックカードの刻印機も購入しました。四谷三丁目にあった六畳二間の事務局スペースも手狭になり、近くにあった20坪ほどの事務所へ引っ越しました。事務局スタッフも4名から10名へとどんどん増えていきました。
東京都内のメンバーは、Cカード申請や教材の購入のために事務局まで足を運んでくれる人たちが、大勢いました。また、オフシーズンになると、沖縄のリゾートの方々が都内を営業に回る際に事務局に立ち寄ってくれました。北海道からも、出張の合間に寄っていただきつねにメンバーの皆さんとお話ができたことがとても楽しい時間でした。また、皆さんは本当に色々な経験をお持ちでした。素潜りで20m入って魚を突いてきたとか、キムチをドンブリ一杯食べて裸でアイスダイビングしたとか。この様な方々のお話を世の中に紹介しようという気持ちから雑誌「ブイ」が発行されました。残念ながら雑誌の発行は思った以上に資金が必要で、長続きしませんでしたが、メンバーの皆さんの様々な素晴らしい生き方を紹介することができました。
資料の翻訳以外にも私はアメリカを始めとする各地域のNAUIと交流し、情報を収集することも仕事でした。初めてカリフォルニアの本部に行った際、ロサンゼルス空港から電話すれば迎えに来てくれると思っていたのですが、ヘリコプターかレンタカーでくるように言われました。全く知らない異国の場所で電話のかけ方もわからない状態だったのに、一瞬とてもさびしい気持ちでした。その後も「この人は何しにきたのだろう」というような雰囲気の中で、モーテルに泊まりながら理事会を傍聴したことを覚えています。しかし、訪問を重ねていく内に、ダイビングに誘われたりしながら関係が親しくなっていきました。アメリカのDEMAショーは通算10回以上、ほぼ毎年のように行きました。ニューオーリンズで初めて開催されたITW、バンコックでアジア発のITWやIQにも参加しました。
80年代、日本に来日した、NAUI会長のJohn Englander氏(正面左)の歓迎 会。NAUI Japan理事のJack Beasley氏(正面右)仙田理事(手前から二番目)、風呂田理事(手前)
「株式会社ナウイエンタープライズ設立。そして、アジアへ・・・」
この様な経験から、㈱ナウイエンタープライズ設立後には、アジアの有志の出資を募って「NAUIアジアパシフィック」を設立し、シンガポールへ移住することになりました。事務所は出資者の1人であった、ダイビング器材ディーラーの倉庫の一角を借りて、今まで日本でやってきたことを手がけました。しかし、英語の教材が使えるのは東南アジアの数カ国だけ、中国語(2種類)、韓国語などの需要があることに気づかされました。しかし、ダイビングは日本ほど普及しておらず、それら各国の言語で各教材を作成するための収入はありませんでした。そのため、NAUIアジアパシフィックは一旦解散し、各国のダイビング事業者にNAUIサービスセンターという、その国内で、NAUIメンバーをサポートするシステムが構築されることになりました。
日本に於いては、前述の教材ラッシュに伴う出版事業の拡大から事業化の必要性が生まれ、数多くの議論や交渉を経て、1989年、株式会社ナウイエンタープライズが誕生しました。その際にダイビングとは全く別の出資会社から来られた、株式会社ナウイエンタープライズの現社長、岩本茂男氏の話しを今でも覚えています。「人間には海に潜る権利がある。それなのに、なぜダイビング業界はダイビングを難しくしているのか?」ということでした。潜水理論を知らなくても、体力トレーニングに合格しなくても、海の中を覗きたい人たちはたくさんいるはずです。確かにスクーバダイバーとして独り立ちするには、色々と知識や体力が必要です。しかし、そこまで一気に行かなくてもいいのではないでしょうか?私はこのような考え方から、現在はグアムで「体験ダイビング」、オーストラリアで「シーウォーカー」の事業を営んでいます。27年前、私がグアムで水中の世界に引き込まれたように、1人でも多くの人にその美しさを理解していただき、スクーバダイビングを通して開ける世界へ進んでいただきたいと願っています。
#6628 吉村 岳志氏